2008-08-01

九州くまもと・郷土の祭りと画家鶴田一郎の歩み

九州くまもと・郷土の祭り

熊本県の夏祭りとして知られる、山鹿市の「山鹿灯籠祭り」と天草市の「天草ハイヤ」。鶴田一郎のこれまでの画業の中で、これ らの祭りとの関わりは深く、長きにわたり両祭りのイメージデザインを手がけてきました。今では鶴田一郎の描くイメージが祭りのイメージそのものとなってい て、美人画の艶やかさが祭りのにぎわいに華を添えています。

「山鹿灯籠祭りの由来」

山鹿灯籠は夜明かしまつり ヨヘホ~ ヨヘホ~
町は灯の海 人の波 ヨヘホ~ ヨヘホ~

山鹿灯籠の由来については、大亀伝説、温泉復活由来説などもありますが、次のような言い伝えが一般的といわれています。
[ 約千三百年の昔、景行天皇が筑紫御巡幸の際、菊池川を遡って、今の山鹿大橋の近くに上陸されようとした時、辺り一帯に白霧が立ちこめ行く手を阻んだため、 山鹿の里人が炬火(たいまつ)をかかげて天皇のご一行を無事案内したという。その時以来、里人たちは、行在所跡(現在の大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火 を献上したのが灯籠の起源であるといわれている。]

「天草ハイヤの由来」

ハイヤ、ハイヤで今朝出た船は
どこの港にサ~マ入れたやらエ~

熊 本県牛深市に伝統的に伝わる民謡「ハイヤ節」は江戸時代後期に生まれたとされています。牛深は天草諸島の最南端に位置し、熊本県下最大の漁業基地として古 くからにぎわい、天然の良港として知られていました。大阪と鹿児島を結ぶ交易基地として栄えた牛深に水揚げされる豊富な海産物は海路、大坂に運ばれます。
当時の商船は帆船であり、追い風を必要としました。南風は大坂までの、まさに順風であったのです。この南風のことを九州ではハエと呼びました。そして、こ のハエがなまってハイヤとなり、“ハイヤ、ハイヤで今朝出た船はどこの港にサーマ入れたやらエー”という歌詞が生まれ、「ハイヤ節」の誕生となったので す。この「ハイヤ節」に端を発し鹿児島では鹿児島ハンヤ節となり、おはら節とならんで鹿児島の代表的な民謡となっていて、長崎の田助ハイヤ、呼子ハイヤ、 三原ヤッサ、阿波おどりのよしこの節などもまたハイヤの影響を受けているとされます。そしてまた天草でもハイヤおどりは牛深だけでなく、天草市(旧本渡 市)でも8月の夏祭りとして踊られるようになったのです。

2006.11.5
鶴田一郎イメージポスター、パネル展開催

山鹿市観光振興課、本渡夏まつり実行委員会、両市の特別協力により、初のポスターパネル展が実現しました。両市歴代のイメー ジポスター約30作が一同に集まったことになり、これまでの鶴田一郎の歩みをその作品とともにたどれる、またとない機会となりました。(リーガロイヤルホ テル小倉1階ロビーにて)

山鹿灯籠:木や金具は一切使わず、和紙と少量の糊だけで作られます。歴史は古く室町時代より、その長い歴史の中で上の写真 のような金灯籠にはじまり神殿造り、座敷造り、合掌造り、古式台灯、矢壷、鳥篭など様々な様式のものが作られてきているそうです。祭りのクライマックス 「千人灯籠踊り」では文字通り1000人の女性が灯籠を頭にのせ踊ります。灯籠の灯だけが夜の闇に浮かび、その光景は見る人々を幻想的な世界へと誘いま す。

イメージポスター「山鹿灯籠祭り」

[ 1993年 ]

[ 1995年 ]


[ 1996年 ]


[ 1997年 ]


[ 1999年 ]


[ 2002年 ]


[ 2003年 ]


[ 2004年 ]


[ 2005年 ]


[ 2006年 ]

イメージポスター「天草ハイヤ」


[ 1994年 ]


[ 1995年 ]


[ 1996年 ]


[ 1998年 ]


[ 1999年 ]


[ 2001年 ]


[ 2006年 ]

関連記事