2013-08-19

Close-Up 渡辺宏

 渡辺宏さんは、画家としてよりイラストレーターとしての活動歴が長い。2002年のお正月に放映された液晶テレビのコマーシャルでは、吉永小百合の背景を飾った。柔らかなブルーの富士山がそびえるなか、馬が天を駆ける絵といえば記憶にある人も多いかもしれない。

 媒体を通して、常に不特定多数の目にさらされる緊張感と絵描きとしての表現欲。渡辺宏という作家を伸ばしたのはこの二者の微妙な均衡だ。
イラストレーションの制作依頼は、商品イメージや記事内容など所定の紙面コンセプトを軸にしていれば、基本的にはおまかせというものが多い。かたや描く 側はといえば、好きなモチーフに物語をどう仕掛けようかと考える。パステル本来の温かみに、渡辺さんのカラーが加わる瞬間だ。「関西出身ということもある かもしれない」と自分のサービス精神を分析するが、とにかく人の喜ぶ顔を見たい一心でアイデアを練る。
大きな白鳩の背に乗っての天空飛行、海を尻目にゆうゆうと空をゆくクジラ雲など、作品からは画面の外に明るさがにじみ出す。大きな窓が海に面したアトリ エで「陽の射す時間だけを制作に宛てている」と聞けば、こんなにさわやかに作品が結晶化するのもうなずける。美しい昆虫の標本、ビーチグラス(漂流して角 の摩滅したガラスのかけら)で作った手製のランプシェード、貝殻コレクション。自然の風物にあふれた室内での制作風景は、パステルをあやつる技量に加え て、作家の伸びやかな感性をいきいきと物語る。

  部屋に入るなり、吹き抜けになった高い天井の上までいっぱいに広がった大きな窓の風景に、目が引き寄せられてしまった。室内にいながらにして一面の空を眺 められるぜいたくなアトリエの住人は、渡辺宏さん。引っ越し魔で、ひとつところに長くいたためしがないという話だが、この部屋に越してきて以来、窓の外の 景色にうながされて、雲を描くことが多くなったとか。

渡辺さんがパステルを手がけ出したのは、1986年頃のこと。それ以前はエアブラシを使った リアルなイラストをやっていた。 大阪芸大のグラフィックデザイン科を卒業した渡辺さんは、リアルイラストの絵描きに弟子入りして、エアブラシを使った精密なイラストレーションばかりを描 いていたのだ。リアルな機械のパンフレット、野菜や果物が描かれたお菓子のパッケージなど、現在とはがらりと違う作品が、ファイルには収められている。そ んな日々を過ごして三年、突如、パステルを使って描きたくなった。リアルに迫りすぎた反動だったのだろうか。高校時代からデッサンを勉強していて、木炭に 手慣れていたことが、自然にパステルを選ばせたらしい。転機になったのはある雑誌のイラストレーション公募での大賞受賞。以来、雑誌や装丁、広告の仕事な ど幅広く作品の依頼がくるようになった。

Q、パステルの魅力とは?

「いちばん早く描けることですね。早く描けて修正がきく。気が短いし、せっかちなんで、性分として早く描きたい。」
なるほど、目の前で無造作に手でパステルを塗り込んでいく姿は、気持ちいいくらいに迷いがなくすばやい。消しゴムで消せばいいのだから、修正も自在だ。なにしろ「消そうと思えば、全部消せる」のだから。
「それから、絵具との違いはあったかさです。深みも出る。絵具の場合はどうしてもテカッとした人工的なところがあってあったかさがないんです。」

  あたたかみのある色調に包まれて、花や人やものが、紗の幕をとおして眺めるようにぼんやりと浮かび上がる独特の渡辺さんの 世界。何色ものパステルを塗りかさね、ハイライトの部分は紙の白を生かして、光と影が描き出される。思いなしか一枚一枚の絵からひっそりとした息づかいが 聞こえてくるようだ。

<1994年パステル美術出版より>

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