2013-08-19

Close-Up 瀧下和之

 

「桃 太郎シリーズ」が自分のライフワークとなって約7年。描きすすめていくに従い自分の思い入れも強くなってきました。「桃太郎」という子供から老人まで誰も が(広く浅く)知っているテーマということもあり、「昔々あるところに~」から始まる本筋の話から一歩踏み込んだ部分、例えば「川で虎パンを洗濯してる 鬼」や「鬼同士で遊んでる場面」「楽しく酒を飲んでる鬼」など鬼目線での生活感ある場面を描いても、比較的違和感なく(考え込むことなく)見てもらえるん だなと感じるようになりました。描いているときには自分なりのイメージがあるのですが、作品を見て受けるイメージは個々の経験・価値観で様々だと思うので、こ ちら側から「これは○○の場面です」と見方を強要したり固定することはなく、例えば「鬼がイヌ・サル・キジをいじめてる」と見る人もいれば、「鬼とイヌ・ サル・キジが遊んでる」と見る人もいます。作家以上に想像を膨らます方もいると思うので作品から見てとれる感想はすべて正解です。

Q なぜ桃太郎がいないのか。
A
2006年7月現在、桃太郎図を350作くらい描きました。が桃太郎は出てきていません。(熊本市現代美術館の個展用に『イヌ・サル・キジにキビダンゴを 差し出す右手』を描いた一度だけ登場)。初期の構想では、単純に鬼を描くのが楽しかったので後回しにしてただけだったのですが、シリーズを進めていくうち に「桃太郎は出さない方がいいんじゃないか?」と考えるようになりました。
主人公であるはずの桃太郎を描かない(登場させない)ことが、観る人のイメージをかきたてる一つの材料になっていて、見た人からの感想でも「画面の少し外 に居る」「作家本人が桃太郎」「観てる人が桃太郎」などなど様々な反応が返ってきます。「なぜ桃太郎が出てこないのか?」とよく聞かれるのですが今のとこ ろ登場する予定はありません。が、まだまだ先が長いのでそのうち登場させたくなるかもしれません。
大 学院2年にあがった春、修了制作には今までの作品とは違う何かをやろうと考えていたとき、「自分のイメージをぶつけられる作品」を作ろうと考え、その時偶 然落書きしてた「鬼」を描こうと思いました。ただ漠然と「鬼」を描くよりも何かもっとテーマを絞ろうと思い、昔話の『桃太郎』にしました。さらに、利き手 と逆の左手で描くことで、勢いにまかせた描線や多少ズレてしまったデッサンなど、偶然性も含めた面白さを画面に残そうとしています。それとあとで気づいた ことですが右手で描く作品はどうしてもバランスの良い形を描こうとしてしまい、イイ意味でのアンバランスさが画面から消えてしまいます。そういった意味で も左手で下絵を描くことがイイ意味でのアンバランスを保つ特徴だと思ってます。
Q これだけたくさん左手で描いていると慣れてこないのか?
A
このシリーズを描き始めた最初のころと比べるとかなり慣れたと思います。作品の描線、鬼の顔を見てもわかりますが鬼の姿が安定してきてます。今だと左でも 右でも同じような鬼が描けると思います。ただ、(失敗もありだと割り切ってる)左手と、(無意識のうちに良い形になるまで描き直そうと思ってる)右手だと 制作中のモチベーションが全然違うし、「楽しく描こう」と思うとやっぱり左手が一番です。左手が慣れてきてはいても、モチベーションは最初のころと今とで 変わってないので、わざと形を崩そうとかいう気持ちはありません。たまに寝起きですぐ描き出すと今でも崩れた描線になります。
Q 左手で描いて(構図など)失敗することはないのか?
A
いつも想い通りいくとは限りませんが、下絵を描く段階で「失敗したかな」と思っても、それはそのまま描き進めます。配色でなんとかなると思うし、結果的におもしろい構図の作品になり得るからです。そしてそういう作品もあった方が並べて見た時おもしろいと思います。
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